東洲斎写楽~謎の浮世絵師~

2021年10月16日

こちらの絵、一度でも見たことがあるのではないでしょうか。

この人物は、寛政6年(1794年)に歌舞伎で上演された芝居「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたずな)」の登場人物、盗賊の江戸兵衛を描いた浮世絵、『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』です。

大きな顔、それに対して小さくも指をピンと伸ばした手。吊り上がった目と眉に、きりっとつぐまれた口から、小悪人の緊張感が感じられます。

これを描いたのが、浮世絵師・東洲斎写楽

写楽はこの『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』を含めた28枚の役者絵を矢継ぎ早に世の中に発表し、華々しいデビューを飾りました。

単一的な美しさ、眉目秀麗な人物を描くのが常だった当時の浮世絵とは相反して、人物の特徴や個性を事細かにとらえ、鼻の大きさ、受け口、皺などの部分をデフォルメし、ダイナミックでユニークな表情、ポーズで描き、さらに背景にちりばめられたキラキラした母摺りという高価な顔料を使用するなど、斬新な手法を用いた写楽の浮世絵は江戸の人々に賛否両論を巻き起こしました。

この浮世絵が好きか嫌いか、面白いかどうか、当時の江戸っ子に物議をかもしていたのだと想像し、その会話をちょっと聞いてみたい気もしますね。

このように浮世絵界にセンセーショナルな登場をし、人々を魅了した東洲斎写楽。

実は寛政6~7年のうち、約10か月間に145点もの浮世絵を発表したものの、その素性がよくわからないままの人物なのですが、実は八丁堀に住んでいたのではないか、と言われ、数々の論説が繰り広げられています。本当はどうなのでしょう?

今のところ、写楽は、阿波徳島藩主蜂須賀家の下屋敷に勤めていた能役者、斎藤十郎兵衛ではないかという説が有力となっています。(下屋敷があったのは、現在の中央区中央小学校、鉄砲洲公園のあたり)

その根拠となるのが、斎藤月岑、1804年(文化元年) - 1878年(明治11年)という江戸の町名主(江戸の家持、考証家、町の代表者)が著した『増補浮世絵類考』にある、「写楽斎」とは「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」、という記述です。

江戸の各町についての由来や名所、人物などを記した『江戸名所図会』の著者である月岑ですから、詳細に調べた事実に基づいて書かれていると、ここは八丁堀の民として、ぜひともその八丁堀説を押したいところです。

確かに存在していたのにも関わらず、未だ謎が多い東洲斎写楽。だからこそ余計に、惹きつけられるのかもしれません。